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政治家など国や街をつくる人に知ってほしい戦国武将~北条早雲って誰?(2024.3.14版)

北条早雲の生涯

伊豆の名所でよく目にする名前が『北条早雲

早雲さんは戦国時代初期から現代の私たちの参考になる政治改革をたくさん生み出し、理想の政治を作り上げようとしました。

驚くような戦術で勝ち続けた事は歴史ファンのみなさんには有名ですが、私は政治改革の方にスポットを当てて、みなさんの生きる参考になるように紹介したいと思います。

また北条早雲は詳しく分かっていない部分が多いので、今回は有力する説を採用しました。

北条早雲ってこんな事をしたんだー」と大まかな流れを知って頂けたらと思います。

出身は岡山県

(北条早雲やその子孫は小田原城に住んでいたのですが、そのはじまりが実は伊豆からなんです!)

北条早雲は1456年生まれ。

戦国時代の初めのほうです。

生まれは岡山県です。

北条早雲と言えば下剋上をした戦国武将と言われているので、庶民の出と思いきや…

お父さんは高越山の家来、お母さんは室町幕府の官僚の娘。つまり高級官僚の息子でした。

なぜ伊豆へ?

(今川家は静岡市にある駿府城に住んでいました。後に家康の持ち物になります)

そこには今川家と関係していました。

早雲には北川殿という姉がいます。その姉は今川義忠と結婚、今川家に嫁ぎます。

(両親が高級官僚でないと北川殿が大名の今川家に嫁げないので、高級官僚の息子説が濃厚なんです)

義忠は駿河守護大名でした。

守護大名とは室町時代室町幕府の役人が、地方へ行き、室町幕府の政治をします。

室町幕府の支店のイメージです。

今川義元の敗死後に没落していった名門今川家。気になるその子孫は? | 戦国ヒストリー

(今川家で一番有名なのが義元。織田信長桶狭間の戦いに負けて亡くなります。2023年大河ドラマ『どうする家康』では野村萬斎さんが演じていました)

最初は沼津に

(同じく静岡市駿府城公園)

しかし、1476年に義忠は急死します。

家を継ぐのは義忠と北川殿の子どもの龍王丸(たつおうまる)ですが、まだ6歳だった為に誰が家を継ぐのか争いが起きてしまいます。

その仲介役に早雲は駿河へ向かいます。

その結果、小鹿範満(おしか•のりみつ)が龍王丸が成人するまで代わりに治めることになります。

しかし、龍王丸が成人しても範満は家督を譲らなかったので、1487年早雲は範満を討ちます。今で言う軍事介入といったところでしょうか?

その龍王丸は後に名前を氏親に改めます。

そして今回の褒美に早雲は沼津市の興国寺城をもらいます。

(ちなみに鎌倉時代から続いていますがこの時代は手柄を立てるとご褒美に土地を貰っていました)

(興国寺城跡から。目の前に伊豆半島が大きく見えます。早雲もこの景色を見ていたのでしょう)
この頃に出家し、今川家の家来にまります。

伊豆で革命!

伊豆の国市に伝堀越公方所という所があります。

公方とはここでも、室町幕府の支店の人です。

堀越公方足利政知の子の茶々丸が、家督争いで継母と子どもを殺してしまい、自分は公方、つまり堀越公方のトップになります。(茶々丸怖い…)

また茶々丸は伊豆の偉い人を殺したり、年貢を上げ民を苦しめるなど、伊豆がめちゃくちゃになってしまいます。

その伊豆の情勢を何とかしたいと思った室町幕府11代将軍•足利義澄は何とかするように管轄地の今川家に命令。

今川家は早雲に命令。

1493年、早雲は伊豆に入ります。

敵も味方にする全員参加の街づくり

(早雲さんが伊豆に一番最初に住んだ韮山城から。きっと早雲さんもこの富士山を見ていたのでしょう)

敵の兵士に良い条件を出し、裏切るようにします。

「味方に参じれば本領を安堵する。参じなければ作物を荒らして住居を破壊する」

と高札を立てます。

これを見た伊豆の人たちは続々と早雲の味方になります。

『味方にならなかったらめちゃくちゃするぞ』と脅し文句のようで荒いなという印象ですが、敵だからと言って容赦なく切り捨てるという発想ではなかったのです。

敵を味方にすることで死者を減らしたかったのか、伊豆の人たちの心を掴みたかったのかなと思いました。

しかしそれでも早雲に反抗する者はいたようで、5年がかりで伊豆を治めることができました。

伊豆と早雲にまつわる場所

この頃の早雲さんに関わる伊豆の場所を少しだけ紹介します。

狩野城

(伊豆市大平柿木にある狩野城。早雲に反抗しました。ちなみにこの側を流れる川も狩野川。またこの子孫は後に美術館でよく見かける狩野派という絵師の集団を作ったなど、狩野家も探ると面白いです)

大見城

(伊豆市柳瀬にある大見城跡。こちらは早雲の味方になります。『大見三人衆』と呼ばれる人たちがいて、先ほどの狩野城を攻める早雲に加わりました。なんかこれだけでもドラマになりそうです…!)


韮山城

早雲さんが伊豆を治めるようになってから亡くなるまでいたのが、伊豆の国市にある韮山城です。

さらに東へ!

この頃、伊豆から東の関東。

応仁の乱がきっかけで、この頃の日本は「自分が政治をするんだ」という争いが起き、治安がとても悪いです。

関東も、関東管領という公方の補佐役で、内輪でモメ、内戦がひんぱんに起きていました。

それを伊豆から見ていた早雲さん。体制が混乱しているときに必ずスキがある。と思ったのでしょうか?

先ほどの掘越公方と同じ流れで、今川家の命令で軍事介入に入った早雲さん。

勝ったほうに「これからも何かあったら助けます!だから負けた方の領地、僕が見ますよ〜」と事実上、自分の領地にします。

ちなみに小田原城は最初から北条家のもだったのではなく、早雲さんのときは大森氏頼•藤頼のものでしたが、上記の流れで早雲さんのものにしています。

最終的に早雲さんが自分の領地にしたのはこちらです。

北条早雲は何をした?

(沼津市興国寺城通り。その名の通り興国寺城に続いているのですが、街が碁盤の目のように綺麗に区画されています。沼津の人曰く、この街並みは珍しいとか。京都の街を参考に街づくりをしたのかなと歩いていると考えてしまいます)

先ほども書いたように、茶々丸の政治で伊豆の人たちが困っていたのを打破するために早雲は伊豆を治めた経緯があります。

高札を立てて、敵を仲間にしてしまう発想もします。

戦国時代、戦の兵隊は武士はもちろん農民もなっていました。

自分の街の人たちが元気でないと兵力は弱ってしまう。

兵力が弱いと敵が攻めてきたときに負けてしまい自分たちの街がなくなるかもしれない。

だからこそ、街のリーダーのやるべき事どうすれば街の人が元気でいられるか?

具体的には街の人の「生命と財産の保障、平和な社会の為の実現」を行うべきだと思ったのでしょう。

早雲さんは驚くべき政策をします。それは現代の私たちにもとても参考になるものばかりです。

破格の税制改革

戦国時代から税金はあり、当時はお米でした。

七公三民も珍しくなく、採れたお米の7割が税金として持って行かれるなど重税に苦しんでいました。

(ちなみにお金よりもお米がこの時代は大事で、手元にお米がないと餓死するので本当に大事だったんです!)

早雲は四公六民という衝撃の税金にしてしまいます。

こういった政策もあって、伊豆の人が茶々丸よりも早雲を支持する理由のひとつになりました。

大名で初めて検地を実施

この破格の税率。もちろん重税に苦しんでいてかわいそうだからと闇雲に下げたわけではないのです。

小田原で検地をしたという記録が残っていて、これが大名として初めて検地を実施しました。

つまり自分の街にはどのくらいお米が取れるのかデータ化したのです。

そうすることによって、適正な税率をすることができました。

また、当時ももちろん地震災害などはあり被災した時は税率が軽減されていました。

これもデータ化して財源を把握していたので、うまくやりくりできたのかもしれません。

早雲のスピリット

そんな早雲さん。どうしてそんなアイデアや発想が生まれるのでしょうか?早雲さんのスピリットを感じるような部分も残されているので、それを見ていきましょう。

試されているのは自分

早雲さんが伊豆で茶々丸を倒す為に入ったときのころ。

最初は早雲さんを怖がって山に逃げる人が続出するなど、受け入れてもらえない状況でした。

その頃、伊豆では流行り病がありました。

早雲さんは薬の知識があったので、薬を作り病人の看病をし続け、治った人たちが「早雲は良い人だからみんなで暮らそうよ」と説得にあたり、早雲さんの支持者が増えていったそうです。

この時、早雲さんはこう当時を振り返っていました。

「情けをかけるのは人の為ではない。

己の器量が計られているのだ。

彼らを見捨てて敵に向かうならば、病人は全て死んでしまうだろう」

 

いかがでしょうか?早雲さんは自分が天から試されていると思っていたのかもしれません。

21個の心得

早雲さんは晩年、後を継ぐ子供たちに「早雲寺殿廿一箇条」という家訓を残しています。現代語訳に訳したものがコチラです。

いかがでしょうか?どれかみなさんに響く言葉はありましたか?

自分の力だけで未来を作る

早雲さんは自分で力だけでのし上がった、戦国時代の幕を開けた武将と言われています。

早雲さんは駿府に行く前はやはり幕府の官僚だったようで、今川家のゴタゴタや茶々丸を退治したことを功績にして、幕府の中で更に出世することもできたはずなのに、それをしませんでした。

実際に早雲さんは幕府で高い地位についた記録はないそうです。

茶々丸に苦しめられた伊豆の人たち、自分たちの権力争いで内戦が続く荒れ切った関東。

そんな情勢を見た早雲さん。

「だったら、自分だけの手で、誰もが幸せになる世界を作ろう」

力強さと優しさを兼ねたひとりの武将の物語でした。

韮山で感じる早雲のスピリット

そんな早雲さんのスピリットを感じに韮山城へ行ってみませんか?

歴史の知識がなくても分かりやすく、紙芝居を使ってガイドしています!

予約は当日あさ10時までOKの日もあります。詳しくは画像をクリックして下さい。

参考文献&後北条オススメの本

後北条、超初心者にオススメ。まずは最初に読む本。百聞は一見にしかずで、漫画なので文章よりもイメージつきやすいです。ギャグ漫画なので気楽に読めます。個人的には上杉謙信が何度も名前を変えているのを「メアドをすぐ変える女子みたいだな」がツボでした。笑

 

後北条の政治を中心にどんな事をしたかより詳しく書いてあります。著者が参議院議員衆議院議員、神奈川県知事という経歴なので、政治家目線の後北条が書かれているのが興味深いです。ある程度の歴史の知識が必要なので、上記の漫画で後北条の流れを知っておくと読みやすいです。

 

正直、上記2冊を読まないと分からない内容ですが、後北条の政治を、「判子文化のはじまり」「裁判制度」「税制改革」「納税と利子付き延滞金の制度」「市場関与」「国民の国家への義務」「公共事業」と分けて詳しく解説。何度も言いますが全て戦国時代の話ですよ…。街づくりに関わる人や興味ある全ての人に読んでほしい古くない政治のヒントがたくさん隠されていますよ!


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